鬼とロックの相似性について

Posted 2013-01-05

鬼とは何であるか?

この命題で私が読んで印象に残った本で、近藤善博、馬場あき子、大和岩雄の各著書が手元にあります。私が経験したロックミュージックとその風俗の視点から、現代の鬼の姿を考察してみたい。これが私の近年の制作主題であり、本考察の主旨です。

鬼は不良である。「悪」と決めつける程でもない、でき損ないが不良である。排除はされないが、片隅でその存在くらいは許される。退学には至らぬが学規には従わない不良。科学の授業をさぼって音楽室で楽譜も読めないのに適当に遊んでいる。

不良は人気がある。しかし、不良はこの人気を利用して自らを体制化、制度化しない。体制にも制度にも執しない不良は、本部を持たない支部、アナーキズム、永遠の野党と自らを悟る。党と呼ぶのも憚られる個の集団は、時の経過と共に霧散する。水滸伝の百八の玉のように、山に隠れる鬼のように。

鬼が隠れた<日常>と呼ばれる実り過ぎた飽和様式のなかでも、節分や地鎮祭や各種の民間祭礼のときに鬼は呼び戻されます。なぜでしょうか?私たちには鬼が必要です。私たちの内には鬼がいます。鬼は外と豆をまく、この内に鬼はいます。私にとってのロックミュージックのように。

鬼とは何であるか?と考えることは、ロックとは何であるか?と考えることと同じです。